『無機質』

薄暗い廃墟のようなアパートの奥に、Fはひっそり暮らしていた。ただぼんやりとした気持ちの中、死ぬのを待つかのようであった。
Fの状態。一番には、理由のわからない「虚しいという感情」虚無感、無気力感、だった。

いつものように工場へ行く。薄暗い中に蛍光灯の明かりが無機質に照らす、空間だった。
淡々と、流れる部品へ、部品を付けていくという、単純作業を、朝から夜まで、機械のように繰り返した。
仕事が終わるころには、シワだらけの手が、なおいっそうヨレヨレに見えた。のみならず小刻みに震えていた。
誰にともなく、手を合わせ、ありがとうございました、と云った。

仕事内容の指示を受けたのは――、もう20年も前になる。それからずっと、同じことを毎日繰り返している。淡々と、一言もしゃべらず。
人との関わりは、一切というほどに全く無く、ただ家と工場を往復するのみ。
最近、ものがのどを通らないために、食事も満足にしておらず、げっそりやつれているが――、無論「どうしたの?」と心配する人も無ければ、尋ねる人も……、それどころが人間らしい人間が、存在しない。

何も感じず、何も考えない日々になっていた。
度々、家の中を歩いていたら、急に視界がにじんだ。
床へは、ぽたぽた、水滴が落ちた。雨漏りかと思ったが、天井を見てもその様子ではない。
目や顔が濡れていた。涙だった。
が、そのときは全く、哀しい気持ちも、何らかの感情もなく、なぜそういう症状が? と、奇妙だった。
急に切ない気持ち、ずしり重たい身体、ゆがむ視界、意識が遠く薄くなった。

次に起きたとき、そばで泣いている人がいた、ような気がした。
はっきり目が覚めると、その幻は、かききえた。

日ごとに虚しさ深まる。安らかな何かを求めている。
自分はどこか、場違いであることを直感的に感じながら、今日も明るい日の中へ向かっていった。
突き抜ける青空に、ゾッとしたものを感じ、日常へ閉塞を感じ、…………?、脳はゆるやかに、その働きを縮小化していった。

生まれたときから、私は何かを忘れている気がする。大事なものだったはずだけど、――、どうしようもなかった。全ては、「まぁいいか」だった。

   *
口を出すほどに、自分の状況が悪い方へ行く。
口を閉ざした。
文句を言わず。噤む。
誰に相談することなく、滅びるだけだった。

・感覚は薄まり無感覚。ただ虚しさだけが深まった。

2013年4月4日


抽象小説『鈍い光』第一稿

   一
 通常の物質世界だった。貴方は目が覚め、起きる。晴れていたが雨が降っていた。そう云《い》うこともある。今日はトーストを食べた。

   二
 車の助手席に乗っていた。ゆらゆらしている。どこかへ走っていた。知らない景色が前から後ろ。隣に座る運転手は誰だったか。何とはなしに運転手が口を開き、貴方はいつものように答えていた。
「どこへ行く?」
「遠い所」
「遠い所?」
「知らない場所」
「知らない場所?」――「よし、XXXへ行くか?」
 知らない地名だった。が、どこでも良いと、「うん」、そう答えた。

   三
 いつまで走っていたか分からない。空の色が変わっていた。赤紫の薄明りが、暗い雲の隙間から洩れていた。運転手はもういない。のみならず車も消えていた。動いているのは自分の足だった。

   四
 鈍い光が当たっていた。いつしか貴方は見覚えのある道を進んでいた。見覚えのある道――? そこは幼少の頃、数度通ったことのあるだけの道だった。なぜここを歩いているのか知らない。唯《ただ》その道へ再び戻ったのは本当だろうと思った。しかし――、貴方はそこまで考えて、思考も判然としていないことに気付いた。冥々《めいめい》している。こう云うときも貴方は思った。(理性とは頼りないものだ、な)と。貴方はここで停まってはいけない……! そう云う鋭い気分と云うようなもの、それは確からしい。前に進むには――? 「考えても仕方ない」、それに気付くことだった。

   五
 考えるのではない、感じるのだ。――昔そう云った人がいる。限界点の突破だった。大切なものは目に見えないんだ。――貴方はようやく、その世界へ戻って来たようだ。この寂寞《せきばく》とした世界へようこそ。元いた世界に帰るまでは、しばし頭を置き忘れて欲しい。
 貴方は貴方でなくなる自他共に混沌としたム(無)に、或《あるい》は調和の存在へ移行する。

   六
 痛かった。唯痛かった。冷えた空気の中を歩くのが傷にしみた。やらざる得ないことが一つまた一つ増えたと同じに内臓からの吐き気が増えた。生きることの苦しむことを重なり。

   七
 その世界へ馴染んだ夕暮れ。廃墟にこもりがちだった。たまに外へ出る。ぐるり風景を受けた。薄曇りの夜空は球体に張り付く。直観した。作られた仮想空間だ、と。素晴らしきおぼろげな鈍い光景だった。

   八
 否応なしに現実感を突き付けなさる。対象は本当なのか、現実なのか、実際か、本物どうでもなしに処理してゆく。いずれこの現実?世界のみを実在世界であると云う。とりあえずの前提を何とはなしに受け入れてゆくだろう。

   九
 「世界を基本的に一つしか感じず、残りを空想に存在させるのは人間の限界だと思う。」
 鋭く焼き焦がす光へ身を投じたらしい。精神と身体がスムーズに連携の取れなくなった。暗闇を好んだ。調和を崩した歪さは感取《かんしゅ》を異《か》えたらしい。淋しさ混じり。誰にも理解されず、どう去ったか知らない。広がる混沌。唯先へ進みたい。振り返っても過去はもうない。そこに自分はいない。代わりに鈍い光が研ぎ澄ます――。もうそろそろか? 分からない。いやまだだ。残っているか。分からない。

   十
 やがて無になる、全ては消える。誰でも知のある生物ならばこの世界へ旅立って来た頃があるはずだ。忘れ。大人になるにつれ、何の疑いなしに、この世界の住人であるとなる? いつしか日常の狭い道を行き来している。――そう云うものだ。

   十一
 今は雨がしとしと落ちている。コョロコョロと云う滴音《しずくおん》が聞こえる。溌剌《はつらつ》としない、とても静かな心持ちだった。無念無想無我。これで良い。いつか言葉を捨てるとき、大きな前進をした頃。

   十二
 それまでは繰り返す。一進一退。無意味を口にする。口あり心あり作動中。

   十三
 鈍い光は自然とそこにある。こちらは何もせず何もせる。あるがままにそうしている。唯黙々とした心の内にとらえ続けるだけだ。一人一人しかない。見えはしない。感じ取れはしない。分かり感じ吸い込む。遠くでもあり近くでもある。昔より今、だが昔も置る。さまよってもさまよわなくても良い。

   十四
 <貴方>はいない。が、いるとしても良い。この世界がある。しかし、ないとしても良い。現実だろうか、空想だろうか。どうとでも良い。同じことだ。故に物語をここへ終えても、先があるとしても、同じことだ。あるもないもなし、同時に両方がある。表裏は一体となってそこにある。なくもあり、ありもなく。

二〇一四・七・二九