無味平和

前編「無味平和」

 目の覚めた時、すでに夕方の四時であつた。部屋はもう暗い。窓の外には蝉(せみ)の涼しい鳴き音と、夕闇、人の無い風景だけであつた。家の中は異常の無い様子だつた。
 窓を開いた。外の空気は確実に冷たく、空には雨雲があつた。雲はいつもと同様のものに違いなかつた。けれども私は生命と無関係である雰囲気を感じない訳にはいかなかつた。
 物音のしない廊下を歩いている時、どこかでチエンソオの音を聞いた。同時に昔食べた焼芋を思い出し、わずかに懐かしい心持ちになつた。
 台所にあつた椅子へ腰掛けた。台所も他と変わらず薄暗いじめじめとした所だつた。二度、黒い何かが足元を走つた気がした。それからテエブルの上を唯眺めていた時、一つ白い粉の詰まつた袋があるのに気づいた。身体をそちらへ移動した。果たしてそれは砂糖だつた。テエブルの上には他に皿と泥しかなかつた。皿を見つけた時、皿という字に似た「血」を連想しない訳にはいかなかつた。同時に皿と血の関わりも疑問に思つた。そしてその答えは酷く残酷なものに違いないと思い、考えを振り払おうとしながら砂糖へ手をのばした。砂糖の詰まつた袋は見た目以上に頑強な作りだつた。左手の近くにフオオクがあつた。フオオクを何度か突き刺したのち袋を破いた。テエブルの上や床は砂糖が出鱈目(でたらめ)に散乱した。
 砂糖をひとつかみ食べた。疲れが酷くなつたので、またベツドへ向かつた。太陽はすでに落ち、闇がさらに広がつていた。身体が二倍三倍重くなつた。目まいがした、足がふらつくと気づいた時、身体は床へ落ちた。はいつくばりながら寝室へ向かう。ベツドの側へ来たが立ち上がる事はできなかつた。仕方なく近くにあつたマットに俯(うつぶ)せになつた。意識が薄くなる間なぜか「足跡」と言うものを幻影の中に映していた。
 翌日。
 起きたのは夕方の五時であつた。もう夕方であり何もすることの無い様に思われた。私は起きようとせず眠り続けた。
 翌日、起きず――
 翌日、起きず――
 翌日、起きず――
 翌日、朝五時に起きる。
 今が夕方ではなく朝の五時である事は、外の音の加減から想像できた。所々脱水症状が発生しているようだつた。喉の渇きを感じた。だがすぐに疲労感の方が酷くなつた。とても眠たくなつた。その後意識は消えた。瞬間、養父母のじつと見る視線、表情の見えた気がした。
 次に起きたのは大体一週間後のようであつた。腕は骨の形を露(あらは)にしていた。首の力が減つたらしく手を用いなければ頭部を持ち上げる事が不可能だと分かつた。面倒に感じ、動く事起き上がる事をやめた。今の状態でも不都合を感じなかつた。


 目が覚めた。
 妙な事にこの場所はとても自室には見えなかつた。壁にいくつかのポスタアがあつた。それを貼つた覚えはなかつた。ほとんどが埃(ほこり)にまみれていた。
精神――病院――
 実家は確か外科だつたと思いながら他のポスタアも見た。
躁――鬱――
 眼球と首が疲れ、見る事を止めた。
 ――次に目を開いた時、目の前には他人がいた。しきりに話をしているようだつた。しばらくして、どうやら話の相手は私らしいと気づいた。しかし相手のこの小さい声と酷いなまりとが混ざつたものでは、話しているのか話していないのかを判別するだけだつた。もう少し大きな声で、と言いたかつた。言おうとした。自分の声は聞こえなかつた。他人は何か紙切れのようなものを取り出してペンで何かを書いて私に見せた。しかし、紙には何も書いてなかつた。他人が何を言わんとしたのか一切分からないまま、他人は泣き顔になつた後、部屋を出て行つた。
 その後、私は葬儀場にいた。祭壇に飾つてある写真は遺影らしいが、光の照り返しが激しく、しばらく見える事はなかつた。まわりの人々が突然立ち上がり、どこかへ去つた。遺影を見た。照り返しが弱まつていた。はつきり見えた。それは自分自身である事を知つた。そしてなぜか、やつぱりだと思つた。しかし完全に見えた時それは別の顔になつていた。
 また日の力が強くなり明るくなつた。のみならず、まわりにある色々のものを崩し始めた。私はついうつかり日そのものを直視してしまつた。倒れた時、不似合いに目玉焼きが置いてあつた事に気づいた。それは文字通りの目玉ではなく、当然、卵を焼いて作つた方の目玉焼きに違いなかつた。
 見まわした。遠くに墓がたくさんあるのが見えただけだつた。あの遺影の顔はまた別人になつていた。

後編「幻影現実」

 朝七時。
 母に礼をされた。私はお早うと言つた。礼をした。黙々と米を口に入れたのち、中心部へ出掛けた。詰め込まれたようにたくさんの自動車が走り、工場は黒と白、黄色の煙を吐いていた。都会の煤煙を吸いながら地下へと降りていつた。

密集都市夜景
 下水道付近には、いつもの様に人々があふれていた。人々は何気の無い事を言つては唯大笑いをしていた。時折嘲笑が見え隠れする事に気づかない訳ではなかつた。
 下水の側にあつた小さな木箱に腰掛けた。下水の流れを眺めた。紫色の泥が時々流れたり、赤い何かが流れたりしていた。その度に嫌な臭いは強くなつた。
 赤――、それは私がもつとも嫌いとするものであつた。ふと右の方を見るとゴミ箱があつた。中を見ると肉が捨ててあつた。赤くはなかつた。赤くはなかつたが赤に近い何者かだつた。すぐに自分の座つている木箱から赤い液体が染み出している事に気づいた。
 木箱から飛び上がりつつ離れた。壊して中を見てみたいという興味と恐怖の混合を背中に感じた。誰かの渡してくれたハンマアを使い、木箱を斜めから打ちつけた。思つた以上に楽に壊れ、中身を露(あらは)にした。それを見て恐ろしくなつた私は木箱を横から蹴り飛ばした。木箱からは血に沈んだ女の首が現れた。
 そのとき、まわりの者は女の首へ注視したが、一分と経たないうちに、また笑い話などをしていた。私は首を木箱にしまつたのち隅へと置いた。それから三十分くらいの間、私だけが何度も木箱に視線を向けた。三十分経つたのち木箱に近づき、それを蹴り飛ばした。木箱は赤い液体をこぼしながら、崩れて下水道へ落ちた。しばらく下水道の色が赤くなつた様だが、それも数分後いつものダアクグリインへと戻つていた。
 その後、人々を見た時、私は初めて気づいた。全員の首に赤がある事へ。もう笑つている者はなく、すべての視線は慈悲へと変わつていた。私は気が狂つた事を自覚し、下水道へ倒れた。ダアクグリインに身を浮かべて――




2007/09/27
ワイヤー・パンサーの空想空間