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あとがき


 あとがきです。色々と思うことを書いております。

■残酷描写と悪の描写について。
 人を傷つければ、血は出ます。切れば、グロテスクな内臓が覗かせます。それが、当たり前だからです。傷つけば痛いのです!
 人間は、善も悪も、本当の姿です。見知らぬ赤の他人を、ためらいなく命がけで救う姿も、本当です。相手が死ぬまで、楽しんで傷つけ、痛ぶり殺す姿も、それも本当です。人間の精神は、そういうふうに幅の広すぎるものなのです。

 殺人や犯罪を描くことに反対する方もいると小耳に挟みました。
 特定の方へ誹謗中傷をしない、などの基本を守り、その上でなら自由に書いて良いのです。悪を描いて良いのです。むしろ、そういうものも必要なのです。なぜなら、善だけで善を語れない。善を語るためには、悪があるからこそです。それは比喩で云えば、黒一色で黒には気づかない、白一色では白に気づかない、白黒両方あるから気付く。
 残忍な行為はやってはいけない。でも、それを表現していけない、と云うのは間違っております。表現することで、ニュースなどのような事実報告だけで伝わらないものが伝わるかもしれない。それが積み重なって人間社会に与える影響は、割と大きいと考えております。
 人間と云うのは、衣食住足りれば、それで満足に生きられるものではありません。心があります。心には、心の栄養が要るものです。それが不足しても、健全な社会にはなり得ません。
 なぜ人類は、物語を作り続け、読み続けているか。なぜ宗教というものが根強く続いているか。それは人の、衣食住では満たされない心の側面があるから。「心が満たされる」、ということ。それが難しくも、しかし、生きようとする限り、追い求め続けるもの。

■狂気的・猟奇的描写の参考
 ある登場人物の狂気的・猟奇的描写について、参考になったのは『1人殺しても2人殺しても同じことだと思うから』(略称:ひとふた)と云うフリーのビジュアルノベル作品です。
 執筆中たまたま図書館から借りて読んでいたスティーブン・キングさんの『ミザリー』と云う恐怖小説なども、狂気的な面がありました。

■刃沼の過去を描いた補章(おまけシナリオ)があります。この章は元々別作品でした。以前に書いたものを改作して使っています。(登場人物をデガラシからヘレネーに書き変えました)。ちょうど刃沼の幼少期(のパターンの1つ)を書いた内容でした。なのでこの出来事を過去として含ませれば、人物像および世界観に深みが出るのだろうか? と半信半疑ながら交ぜた次第です。思った以上に、「何か訳ありな人」と云う描写が良くも悪くも多くなりました。

 蛇足かつ補足です。この話(補章)の最後では、学校へ行くという展開になり終わっております。この転入先が、本編 狂人化現象での学校……ではなく、それとは別の学校のつもりです。
 まずそこで、やはりイジメに合い、人間不信を深めて学校嫌いになり、不登校になる。場合によっては住み家も変えてゆく。そうしてしばらく年月が過ぎた後、また学校に行かないか? という機会が現れて、転入したのが、本編に登場する学校という――訳です。そういう(こじつけ)予定だったのです
 ちょっと面倒な筋書きになりますが、本編と補章は本来別々の話だったので、より自然な流れにするためには、そうした方が良さそうだと……。まぁ、でも、もういいんです。もう今作に関連する話は、書きませんからね。

 それに考えてみれば、作品に書いてあること以上の説明付けや解釈は、読者さん方が自然と行うものかもしれません。現実の自然現象を、何とか説明できないかと、あれこれ無数の仮説を捻り出しては淘汰されるように。聖書が、あらゆる解釈をされるように、物語と云うのも、また、人それぞれが解釈し、「自分にとっては、そういう意味だ」と思い込み、信ずる。それが正解でなくとも、当人が信じれば、正解のようなものです、当人にとっては。
 私はもう、書き手として、表現したいことを読者に分かって欲しい、とは、あまり思わなくなりました。なぜならば、ほとんどの読者は 人間は 自分の望むように物事を見るからです。その人の望まない答えや問いがそこにあっても、普段は見えないものです。そして、仕方ないんだと、それが脳のメカニズムなのだと、諦めております。
 この作品では、「流される人間」を、悪寄りに描いております。しかし……今の私はむしろ、自然に従い、悩み苦しまず済むならば、その流される人間、或は、自覚し「流されようとする人間」になったほうが幸せなのではないか、と思い始めています。
 心身ともに疲れました。楽になりたい、です。あれから2年たつ2016年の今では、それを切に願います。楽になりたい、と。色んなことを考え、思考を重ねていった、が……、そんなことよりむしろ、「バカ」のほうが価値があり、幸福な気がして……。
 自分がダークな話を書いてしまうのは、生まれつき心身が健全ではなく、苦痛や痛みに敏感な性質が、一向に改善されなかったからだと思います。(だとすれば明るい楽園的物語を描くようにすれば、精神が改善するかもしれない、と今思いました)
 創作というものを初めて10年になります。これからも陰湿な内容ばかり書いているとしたら、いずれ私は自害しているでしょう。明るく、希望のある内容を書くように変わっていったら、元気で生きられるかもしれない。

■刃沼の神業的早撃ち
 参考にしたのはゴルゴ13……だけでなく、最近まで実在した凄腕ガンマンです。抜き打ちの速さだけで比べるならば、架空の存在であるはずのゴルゴ13や「ルパン三世」の次元大介と勝るとも劣らない。現実は小説より奇なり。その凄腕ガンマンおじさんは、2つのターゲットを撃ち抜くのですが、銃声は1発しか聞こえない。速すぎて射撃動作は見えず、見た目には1発か2発か0発かも分からない。スローモーションでやっと、確かに2回撃っていることが分かります。
 マンガやアニメの世界ではなく、現実にここまでの方が存在するのだから、今回ライトノベル的(だと思っている)物語では、もう少しぐらい現実離れしても良いだろうと思いました。
――余談
 人間離れした速さと云えばブルース・リーさんもそうです。「燃えよドラゴン」で、向い合せになり、互いに相手と手の甲を接した状態から、攻撃する、と云うシーンがあります。他の方々も武道家なのですが、明らかにブルース・リーさんだけ抜きんでて速い! 他の方は速くとも、動きは分かるのに対し、ブルース・リーさんのときは、どう動いたかすら分からなかった……。スローモーションで何度も確認してようやく「一瞬にこんな動きをしていたの!?」。瞬きをするかしないかの間で、右手も左手も同時に上手く使った攻撃でした。
 他、連続蹴りのスピード。片足の連続蹴りなのに速い……。両足を交互に使って蹴り上げるのではなく、同じ足からの蹴りなのに、その速さにびっくりしました。
 速過ぎてスローモーションで録ることも少なくなかったようです。

■漢字表記の揺らぎ
・漢字の表記の揺らぎにはまいった(「くる」と「来る」が交ざったり。「たち」と「達」。「という」と「と云う」。他にもずらり)。正規表現機能付き一括置換ソフトを用いても、気が遠くなる作業量で……。ごめんなさい、漢字表記の揺らぎについては、妥協をお願いします。
・数字を、アラビア数字か漢数字に統一しようとしたが諦めた。部屋番号も九〇九となったり、”一撃”を”1撃”としたりで……止めました。
 後ほど思いました。気にせず統一しなくて良い、と。

■その他
・文体は、ぶつ切りの文章を積み重ねる感じにしたかった。が、早くにそこまで気を回す力を失いました。
・主にセリフでの「てにをは」の省略は意図的です。ときに冗長なセリフもまた意図的なものです。
・人によっては文の綴り方に違和感および馴染めない点があるかもしれません。それは作者が近代文学および旧仮名遣いに影響を受けた名残りがあるからだと思われます。

■セリフの話し手表記について
 ライトノベルのセリフも、シナリオ形式同様に、話し手の名前を潔く書いていただきたい。誰が話しているか、明瞭となる。
 カギカッコ「」の後ろに、話し手の名前を表記する形式でも良い。

■2014−2016
 良く見て下されば分かるように、起稿から脱稿まで2年かかっております。その間、ずっと書いていた訳ではありません。2014年の時点で、ほぼ完成しておりましたが、そこで飽きて気力が尽きました。2016年になって、ようやく推敲&手直しし、公開する運びとなりました。

■この先
 もし私が生きていれば、また数年以内に作品を作って、どこかに出しているでしょう。そうでなければ、いよいよ自殺してしまったが、病死してしまったかと思います。
 やや後ろ向きなことを云いますと、自殺を合法化して、誰でも、その道のプロによる確実な安楽死(苦痛を出来る限り排した安楽死で)を受けられるようにして頂けたら、心が軽く明るくなるのです。
 生きるのに苦痛があるのに、死を望むにも、素人による自殺では、大きな苦痛が予想されるのが、辛いです。かといって、現行の法律上は、自殺の手助けは自殺ほう助または殺人罪となりますし……。
 当人が生きようとするか、死のうとするかは、権利として認めて欲しいなと思っております。その上で自他共に処理しやすい満足のいく方法や施設を用意して頂ければ、本望です。
 或は個人的には、肉体の痛みや苦痛を感じる感覚神経系を、無効にするような、そういう処置が、もし可能ならば、それをやって頂きたい。
 つまり私には、死の恐怖よりも、苦痛に対しての恐怖や嫌気の方が、はるかに大きいです。云ってみれば、死は最後の救いです。死の先が不明なために、死んだらどうなるのだろうという不安はありますが、現実の苦痛から逃れる最後の方法であり、救いとして、死に希望を託す人間もおります。死んだら無になり、何も感ずること考えること苦しむこと、なくなることを願っております。
 もし死後の世界が存在してしまった場合には、それでも、この世界よりも安楽に生きられる世界であることを願っております。――この世界よりも辛い場所だった場合には、救いがありません。

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