第4章 「狂」
◆給湯室
ツミキに呼ばれたヘルは給湯室にいた。また悪口を云われている。
ツミキ「化け物ってお前のことじゃないのか?」
ヘル「ちがう」
ツミキ「マサオを殺ったのもお前だろ? 化け物じゃねえか」
ヘル「マサオ君は行方不明だもん」
ツミキ「ああ、そうだ。でもとも子はどうだ? オレは知ってるんだよ。とも子を殺ったのは、お前だ」
ヘル「ちが…う……」
ツミキ「いいや。そうじゃなきゃおかしいんだ。なにしろいくら考えたって、とも子と同室だった、あんたにしか殺せねえんだから」
ヘル「化け物……、化け物に」
ツミキ「なんでも化け物のせいに出来ると思ったら、大間違いだぞ。人でなしが!」
ホープ「へ、ヘルさんをいじめないでください!」
物陰から顔を出す一人の少年。
ツミキ「ホープ。……そういやケンジが死んだだってな、お前の前で。お前は何も出来ないんだな。お前の無力さで、お前のせいで! お前が何もできないから、また人が死ぬぞ?」
ホープは黙って、うつむいてしまう。
ツミキ「お前はお呼びじゃねえんだ! 消えな!!」
怒鳴り付けられたホープは、しゅんとして、立ち去った。
ツミキ「さぁて、あんたにどういう償いをしてもらおうかな……?」
ツミキはヘルの首を掴《つか》み、床に押さえつけた。そこでまたヘルの脳裏にフラッシュバックが起きる。
ヘル(いじめ、暴行、いじめ…………どこでも。どこまでも。狂ってる。狂ってやる)
ヘルの灰色の瞳はますます生気がなくなった。虚ろな表情になる。ツミキは本能的にマズイと感じたためか、立ち退いた。
ツミキ(寒気が……)
ヘルはゆらゆらと立ち上がる。そして虚無の目つきでツミキをとらえたまま、視線を逸らさない。ツミキへ一歩、一歩、迫っていく。ツミキは後ずさりした末《すえ》、壁を背にした。
ヘル「はハ……ハ」
ツミキ「…………」
ヘル「あなた、云ったね。わたしが 化け物だ、って」
ツミキ「……」(やっぱりこいつは異常だ)
ヘル「だったら…………、いっそのこと…………」
ヘルはポケットの中の小刀を掴《つか》んだ。そこに誰か駆け付ける。
ヘレネー「おいッ!!」
その声に反応し、ポケットの中で小刀を手放した。ヘレネーはツミキに攻めよる。
ツミキ「うう……あ……」
打って変わって怯えの態度に豹変したツミキは、さらに部屋の奥へ後退した。が、ヘレネーに胸ぐらを掴《つか》まれた。
ヘレネー「お前だったんだな、ヘルを暴行したのは……!」
ツミキ「違う……っ」
ヘレネーは後ろからツミキの首を押さえ、さらに髪をグイグイ引っ張る。
ヘレネー「本当のことを云わねえと、二度と飯の食えねえ身体にするぞ! ヘルに暴行を加えたのは、誰だッ?」
ツミキ「……多少、私も殴りました」
「私、も? 他には誰だ?」
「いや……、すいません。私一人で、やりました」
ヘレネー「お前はさっき、多少、なんて云ったが……、あれが少しか!? 身体中 傷だらけじゃねえか!」
ヘレネーはツミキを持ち上げたまま、窓際に移動した。
ツミキ「……あ、あ……」
そして、背負い投げた。窓ガラスがけただましく砕け、ツミキは2階から地面に落ちた。
ヘル「お姉ちゃん……」
ヘルは抱きついた。ヘレネーは頭をなでる。
ヘレネー「おぉ、よしよし……。ホープって奴から、聞いてな、急いで駆け付けたんだ」
◆ホテル前の地面
ツミキ「あ……ぁ……」(身体中が痛い、痛い……。足が動かない……)
デガラシ「何か音がしましたが……」
ツミキに近づく。
デガラシ「どうしたんですか!? 今、運びますから」
デガラシが持ち上げようとする。
ツミキ「痛い、痛い、やめて。骨が折れてるかもしれないんだ」
デガラシ「じゃ、えっと……」
ツミキ(良く見れば、こいつはヘレネーと、仲のいいデガラシって奴……)「担架……、即席の担架を作って下さい。誰か協力してくれる人も見つけて――」
デガラシ「はい! そうだこういうのはヘレネーさんが得意そうかも――」
ツミキ「ダメです!」
デガラシ「ええっ?」
ツミキはしおらしさ心がけて、語り出した。
「僕をこのようにしたのは、ヘレネーさんなんです。それはわたくしも、少し失礼なことはしましたが、2階から突き落としたんですよ、あの人は。とても信用なんかできません」
「そうなんですか……。以前にもケンカで突き飛ばしたって聞いたことがあります」
「なのでヘレネーさん以外の方で頼みます」
「はい、分かりました!」
デガラシは駆けて行った。ツミキは必死さのために痛みも忘れていた。
ツミキ(ヘレネーが駆けつけてきたのは……ホープのせいだ。これからは標的をヘルじゃなくホープにしよう。ヘル姉妹はどっちも危ないって分かったからな)
ツミキは、弱者を嗅ぎ分ける能力には鋭いのかもしれない。
◆ホテル内の廊下〜ロビー付近のカフェ
寝起きまもなくの刃沼は、眠気覚ましのためにホテルの中をうろつくことにした。廊下の両側は所々どす黒い赤で汚れていた。窓ガラスも褐色がかった油のようなものでぬらぬら照り返していた。ロビーまで来た。敷かれた赤い絨毯には点々として黒ずんだようにも見える。視線をぐるりと回す。
刃沼(カフェあったんだ! 目覚めのコーヒーなんか、飲みたいなぁなんて)
そのようなことを考えながら、ロビーに隣接したカフェに入って行った。テーブルに座るとメニュー表を渡された。しかし、横文字の並んでいる図面にしか見えなかった。銘柄を読んだところで味は分からない。適当に注文する。
「ブラックになさいますか?」
「レッドがあったら驚きだね」
店員の尋ねた内容が漠然としか分からなかったので、刃沼は思うままに答えた。
店員「では****で」
見事な発音は、刃沼の耳には聞き取れない。
刃沼「じゃあ、それで。飲めるコーヒーなら、なんでもいいよ」
店員は少々ご機嫌斜めとなり、カウンターの向こうへ行った。そののち出されたコーヒーを飲む。
刃沼(まずまずうまい。膠《にかわ》の臭いが多少混じってるのが難点)
ふとコーヒーから視線を外すと、ロビーを通ってホテルの外へ行くデガラシが見えた。他の生徒と一緒に白い担架のような器具を持っていた。が、刃沼にはコーヒーほどに関心はないものだった。カフェに流れる音楽に誘われ、ジャズを鳴らすCDプレイヤーに近づく。店員が気づいて云う、「お好きな曲に変えて構いませんよ」。見ると他にもCDが揃えてあった。刃沼はそのうち、ぞっこん何とかと書かれたレーベルの貼られたCDを選んだ。まもなく演歌の流れ始めたカフェで、テーブルに戻り満足そうにコーヒーを飲む刃沼がいた。
刃沼(カフェには演歌も似合う)
◆100号室
部屋に運び込まれたツミキはベッドの上に安置された。この部屋だけベッドも備えていた。
タコヤマ「ツミキ……!!」
デガラシ「では、わたしたちはこれで」
デガラシと生徒数人は立ち去った。グルグル包帯巻きされたツミキ。
タコヤマ「誰に、やられた?」
ツミキ「へ…レネ」
雑な応急処置は、口にまで包帯が巻かれる始末だった。そのため声が聞き取りづらい。
タコヤマ「ヘレネーか!」
タコヤマは部屋を飛び出した。
*
タコヤマと入れ替わりに、白衣の者が入ってきた。
研究員「おや、まぁ、こっぴどくやられましたねえ」
ツミキ「…………だ…れ」
研究員「さてさて、じゃあまあ、実験体にさせてもらいますよ」
研究員は、真っ白なゴム手袋でおおわれた両手を掲げた。
ツミキ「……うう……!!」
包帯の上からさらに、布で口を押さえつけられる。
「これはまだ失敗が多いのですが、まあやってみましょう。他人を責めるほどに自分を責めるシステム」
白衣の者はツミキの身体へ細工を施したようだ。
「はい、実装完了しました。さぁて、次の実験結果はどうなりましょうか」
*
ツミキが目を覚めると、人がたくさん部屋にいた。
タコヤマ「起きたな」
デガラシ「ぅ……ぅぅ……」
ヘル「ん……ぅぅ……」
デガラシとヘルは口を布で塞がれていた。
ツミキ「いったい……」
ツミキの包帯は巻き直されたのか、以前よりだいぶ喋りやすかった。
タコヤマ「ヘレネーに対する復讐だ。お前をそんな目にあわせた報復にな。ヘレネーの妹と友人を人質にした。腕の立つものも集めた」
部屋にいるその他の生徒は、どれも体格の良い者ばかりだった。それでもツミキは悪い予感が多分にした。
◆909号室
「おい! 起きろって! おい!」
ヘレネーは熟睡の刃沼を揺さぶる。
「デガラシがいつも云っていたが、本当に起きねえ……。……仕方ねえ。書置きを残すから、ちゃんと見てくれよ」
書置き。
”タコヤマたちに、デガラシとヘルがさらわれた。
タコヤマは1階の100号室だ。起きたらすぐ来い!
ヘレネー”
◆100号室
「おい! おいッ!」
部屋の前でヘレネーはドアを叩く。だが中は静かで応答がない。しばらくのちドアが開いた。ヘルが出てきた。
「お……ヘル。無事だったか――――」
その奥の光景は、奇怪だった。中には何人もの人間がいた。が、動いているのはヘルただ一人だった。みんな顔をひきつらせたまま静かにしている。気を失い動かない様子の者もいれば、始終痙攣《けいれん》するばかりの者もいた。
ヘレネー「デガラシ……」
デガラシはただ座っていた。今まで見たことないほど感情の失った顔付きだった。いくら呼びかけても何の反応も示さなかった。
「ヘル、何があったんだ? ――ヘル……?」
「……フフ……はハっ……へ……ェ……」
ヘルは乾いた笑いを繰り返すばかりだった。
(ヘルも正常では済まなかったって訳か。いったい何だ。タコヤマ達は何をしようとした……!?)
ヘレネーはとりあえずデガラシを立たせて手を引いた。自分から歩くことは出来ないようだが、歩かせることは出来た。
◆廊下
駆けつける刃沼と出会った。
「よぉ……、起きたか」
「無事だったんだ」
「だといいけどな」
「?」
ヘレネーはデガラシを前に出す。すぐに刃沼にも、その無表情さの違和に気づいたようだ。
刃沼「ねぇ」
デガラシ「……」
「ねえ、デガラシ……!」
「…………」
刃沼はデガラシの顔を叩《はた》いた。が、何の反応もない。さらに頬をつねるが、同様だった。刃沼は不安な表情になってヘレネーの方を見た。
「分からねえ。オレが来たときにはもうこうなっていた。そしてヘルもだ」
刃沼はヘルに視線を移す。相変わらず、乾いた笑いを繰り返していた。
◆888号室
次の日。「は……ぬま……」。刃沼は目が覚めた。デガラシを見る。表情が戻っている。言葉はカタコトだが、徐々に良くなっていった。ヘルはうっすらと笑みを浮かべたまま、あまり喋らなくなった。その数日後にはだいぶ元へ戻った。
デガラシ「刃沼、朝ですよ」
刃沼「ああ……戻ってる」
「戻ってますよ」
「良かった」
「わたしはわたしです。変わりないですよ」
「――ヘルは?」
「……」
ヘルの方は分からない。見た目には幸せそうな様子だった。が、何を尋ねても会話をしなくなってしまった。しかし、以前よりむしろ元気なようだ。体調も良い。デガラシに、あのとき何があったのか、聞いてみた。
「あまり覚えていません。なので覚えている範囲で話しますね。気づいたらタコヤマさんたちの部屋にいました。口を布でおおわれていました。ヘルも同じ状態です。しばらくはとくに何もおかしなことはなくて、ぼんやり時間が過ぎていったんです。あるときツミキさんが発作のような症状を起こして暴れたんです。その場にいる人が押さえつけましたが、今度はタコヤマさんが倒れて。そしてヘルがいつのまにか自由になっていました。何か鋭い刃物のようなものを持って…………そこからの記憶はありません」
ヘレネー「ヘル、そうなのか?」
ヘル「……く…………ク……」
言葉は返らない。笑いを噛み殺しているようにも見える仕草をするだけだった。
◆広間 朝
あれからヘルの調子は戻っていった――ようにも見えるし、そうでもないような気もする。友達も増えたらしい。何人も引きつれてる。今その友達たちとオ食事中だ。
サユリ「ヘルっ!!!」
ヘルはきょとんとした顔だ。
ヘル「そう怒らないでよ。食事中は静かにして」
アキ「サユリが怒るのも無理ないですよ。ヘル、もう少し穏やかに過ごせませんか」
ヘル「んー、なんのこと?」
サユリ「とぼけないでよ!! アンタまたやらかす気なの?」
ヘルは気にも留めず、コーンスープを口に運んでる。
サユリ「今度こそ云うからね、アンタの姉にさ……」
ヘルはサユリに目を合わせた。灰色の瞳が淀む。
サユリ「うう…………」
サユリは冷や汗をかく。怯えているようだった。
ヘル「別に。お姉ちゃんに何を云ってもいいけど。信じないと思うなぁ。もちろん、云うなら云うで、それなりのことはするよ……?」
サユリの背筋には鳥肌が立つ。ヘルはサユリの肩に手を回す。サユリはいよいよ全身を震わし始めた。ヘルの腕を払いのけ、逃げるように走り去った。
アキ「ヘル……」
ヘル「あなたはわたしの味方だよねぇ……?」
アキ「…………」
(ヘルさん、変わっちゃった……)遠くで見ていたホープの表情は哀しげだった。
◆波止場
ヘルが散歩をしたいと刃沼を誘った。そして波止場にいる。淀んだ灰色空、淀んだ空気。
刃沼「波止場か。後ろから背中をドンと押して、海に落とすユーモアは止めて欲しいもんだね」
ヘル「しないよ? そんなこと」
顔は平静だったが、ヘルの手は強く服を握りしめた。
刃沼「海にはサメでごった返しだ。ジョークのつもりで落として死んじゃったらブラックコメディだね」
ヘル「はは……は」
刃沼はしばらく海の向こうを眺めていたが、目がうつらうつらし始める。
刃沼「ふあぁぁぁっ」
欠伸《あくび》も出る。
*
ヘル「相談があって……」
ヘルは寒そうに手と手をこする。
ヘル「……みんなわたし見ると、怯えるんだ。……みんなわたしをいじめるんだ。……だからわたしは…遊ぶんだ」
刃沼「詳しく」
ヘルは寒そうにポケットに手を入れる。そのとき向こうから声が聞こえた。
サユリ「刃沼さん! 気をつけて!」
遠くから駆け寄ってくる。
ヘル「ぅ……」
ヘルはポケットの中で、強く握りしめる。
刃沼「やぁ。ヘルの取り巻き連さん?」
サユリは刃沼の腕を掴《つか》み、引いて、ヘルから離す。
サユリ「ヘルっ……」
「……」
ムスッとした表情でヘルはうつむいている。もう一人、来た。
アキ「ヘル、今握っているもの、出しなさい」
ヘルは何かを握った左手を、スーッと前に出し、手を開いた。小刀が落ちた。
サユリ「今度は、この人を刺すつもりだったんでしょ?」
ヘル「ちがう。ちがうもん」
アキ「この後に及んで言い逃れですか」
ヘル「そもそも、敵うわけないでしょ? こんな小刀で。この人すごく強いの知らないの?」
アキ「でも、いつも睡魔に襲われることで有名です。隙を突けばあるいは……」
ヘル「みんなして、疑う。わたしを悪者にするんだ……!」
刃沼は小刀を拾う。
刃沼「刃物の1つや2つ、この状況下じゃ、別に怪しくはないねー。人によってはさ、銃まで携行しているくらいだもの。護身用でないの? ――よっと」
小刀の鞘を抜く。鞘の中からドロドロの血にまみれた刀身が露《あらわ》になった。
刃沼「ありゃりゃ、使用済みだ」
アキ「それが証拠ですよ。それで私の知り合いも殺されたんです……」
ヘル「違うッ。誤解だもん」
刃沼「へぇー」
サユリが刃沼を睨む。
サユリ「なぁアンタ、こいつの知り合いが殺されたって聞いて、へぇーってのはないだろ?」
刃沼「状況を知らないからねー」
アキ「状況?」
アキはやや不機嫌になって聞き返す。
刃沼「どういう理由でやったのか。報復殺人、正当防衛、それとも愉快犯。一口に殺人と云ったって、それだけじゃあ何も分からないもんだ」
サユリ「行こ、アキ」
サユリはアキの手を引く。
アキ「あなたも相当おかしいですね」
アキはきっぱりと刃沼に向かって云い、去っていった。
刃沼「やけに心の余裕を喪失した方々だった。で……、実のところ、どうなの?」
ヘル「知らないっ!」
ヘルも去る。「若干雲行きの怪しさ漂う」、刃沼は呟きながら、血まみれ小刀を鞘に戻し、持ち帰る。
◆ホテル 地下倉庫
赤く滲むシーツにぐるぐる巻きにされたアキの姿があった。四つん這いになったサユリの姿も。そのサユリの前にヘルが立ち、見下ろしていた。サユリは動けない。両足に長く鋭い刃物が貫いていた。
サユリ「いぎぎぎいいいいいぃぃぃ」
噛みしめる。痛みを、苦痛を、無念を、こらえている。
ヘル「アキちゃんは、もう静かに寝たよ。もう起きないよ」
サユリは呻《うめ》く。
サユリ「私が早くに、アンタを殺していれば……」
ヘル「ふフ……は、ははハハハ……。無理だよ。できっこない。分かってるよ。できっこない」
サユリは痛みをこらえて立ち上がる。顔は既に青ざめていた。立ちくらむように倒れる身体を、なんとか足で受け止める。
ヘル「今までだって、何度も何度もチャンスはあった。なのに貴方はやらなかった。優しいんだね。友達を見殺しにしてさ」
サユリは揺らめくように一歩、一歩、ヘルに近づく。
サユリ「こんなこと、いつまでも続くわけが……」
ヘル「笑っちゃうよ。ゲームだってゲームエンド。終わるよ。いいじゃん。終われば」
バラバラな言葉をつなぎ合わせるような喋り方だった。ヘルはケタケタ笑い出す。
サユリ(もう駄目だ。ダメなんだヘルは。壊れてる。だから私の手で始末をつけるんだ……!)
サユリはヘルのもとまでたどり着き、ヘルのか細い首に手をかける。
ヘル「云ったよね? ゲームエンドだって……」
ヘルは、その手を避けて、ポケットから拳銃を取り出した。
ヘル「お姉ちゃんから借りたんだ」
サユリは固まる。
サユリ「撃てばいい……。撃ちなよ……! そんなことしたら銃声でみんなが――」
ヘル「来ないよ」
サユリ「な……」
ヘル「だからここを選んだの。貴方の終わり。ゲームオーバー」
サユリの頭を撃った。…… ドサリと倒れる。「さよなら」、さらに何発も撃った。始終、うっとりとした無気味な表情をしていた。気の済むまで加害行為を続けた。そして地下倉庫のドアを開ける。
ヘル「じゃあ、後始末お願い」
化け物がいて、ヘルの横を通った。そして食事を始めた。
◆地下研究所の一室
誰か、長電話をしている。
研究員「え? ヘルさんですか。はいご存じです。確かちょっと前に失敗した被験体ですよね。え、それから変になったって? いやいや違いますよ。反対ですよ。以前から人殺しの癖があったんです。そりゃマズイってわけですので、私どもの持っている技術で何とかなりそうだな、と初めは思っていたんですよ。ところがうまくいきませんでね。
心を壊した? ご冗談でしょう。そちら方面には効果が出なかったんですから。一部の研究員にも狂人化現象が表れているようですが、そのパターンですよ。今どき珍しくも何ともありません。まだ若い子ですからね、精神の変化も激しいのでしょう。ええ。相手を狂わす能力? いやそれほどでも……何か勘違いをなされたんでしょう。そういう特殊能力の類はなさそう……ううん、まあ、人間にも訳の分からない部分が多いですからね。だったら誰しもあるのかもしれません。私たちがいつも云っているじゃありませんか。『現代科学というのは、自然法則全体のうち、ごく数パーセントを解明したに過ぎない』って。
え? 違って、って何がです? そうじゃなく、化け物を操る力、です、と……? いやはや、それもまた安易な誤解であります。化け物だって生物の端くれでございますよ? エサやったり、うまい具合に調教して、上手い人は心を掴《つか》ませることもできましょう。そんなもんです。素晴らしい道には、つまらない現実が答えなのでありました。……はい、ええ……なるほど、できません。ほら、勉強がすぐ出来る人もいれば、出来ない人もいる。人それぞれですよ。私には化け物の調教する才能はありませんなぁ〜。調教しようとも思いませんし。危なくなれば弱点を調べ、薬品を散布しての一掃が良いのではありませんか? まぁ人の健康体もゴミになりそうですが。はっはは。
おっと、長話をしてしまって。貴方もお忙しそうなのに。失礼。ではこれで。はいはい、貴方には感謝しておりますよ。ええ。ではまた」
研究員は電話を切った。そして誰に向かう訳でもなく合掌し、礼をした。
「ええ。感謝しておりますよ。口だけじゃありません。人を改善する研究をさせて頂き、私は満足です。ちょっとたくさんの人数を犠牲にするのが玉に傷ですが……まぁ、仕方ないですよね。未来の人々のためと思って、その命を頂きます。ありがたく頂戴いたします」
◆広間 夜
刃沼はデガラシと一緒に、みそ汁と沢庵《たくあん》を食べていた。向こうにヘルが見える。相変わらず、数人の生徒と一緒だ。
刃沼(あれ。今日もサユリとか云う二人はいないんだな。仲違いしたのかな)
デガラシ「ここしばらく、レッドパスさん、見かけなくなりました」
刃沼「へぇ」
「前は毎日のようにホテルを徘徊してらしたのに。――あ、沢庵残すんですか、もったいない」
「沢庵は大根の日干しだ」
「干すんですか? 漬けるのでは――じゃなくて、なんで残すんです? 嫌いなんですか大根」
「みそ汁の大根はおいしい。おでんの大根はまだ苦手」
「おでんの大根の良さは、歳をとると、分かるそうですよ」
「ふーん」
◆丘 夜
夜風に当たろうと、外へ出て、近くの丘へ歩いた刃沼。
ヘレネー「よ! こんな夜更けに」
刃沼「うん」
しばらく沈黙したのちヘレネーが話し出す。
ヘレネー「ヘルがよ、このところ、よそよそしいんだ」
刃沼「怒鳴りつけた?」
ヘレネー「してねえ。……オレが近づくと、ささっと逃げ出しちゃうんだわ。この頃はオレ、ちゃんと風呂も入ってるし、洗濯もしてるし、臭くて避けられてる訳じゃなさそうだ」
刃沼「どうだろうね。やりすぎて漂白剤だか消毒剤の匂いがプンプンしてくる」
ヘレネー「あ、話は変わるけどさ。オレは民宿に泊まってるだろ? レッドパスもそこに泊まってるはずなんだけど帰ってこないのヨ」
刃沼「また行方不明者発生かな。もう数えてない、行方不明者数。何人目?」
ヘレネー「違うだろ。普通の人間じゃねえんだ奴は」
刃沼「その油断が大敵だったりして」
ヘレネー「う〜ん……」
刃沼「ああ、これ返すね。妹さんの落とし物だから」
刃沼は小刀を、ヘレネーの手の上に置いた。ヘレネーはそれを、まじまじと見つめるばかりだった。「ヘル……のもの、なのか……」ぼそり云う。色々、悩み込んだ様子でもある。
◆909号室
ヘレネーが去って行ったのを頃合いに刃沼も帰る。化け物騒ぎでボロボロになった部屋909号室に戻る。ドアを開けると正面に、ヘルがちょこんと座っていた。
刃沼「デガラシ、は――」
ヘル「デガラシ姉には、少し出てって、ってお願いした。 刃沼と二人で話したい、って」
刃沼(雰囲気がやや違う――。それにしても、なんでこの人は私にしつこく関わる?)
急にヘルは泣きだした。
ヘル「貴方しか、話せる相手がいないんです……!」
ヘルのしおらしさと対照的に、刃沼は警戒心を持った。潜在的な警戒心だった。
ヘル「今日二人を殺しました。わたしがやったんですが、わたしじゃない。わたしの中のわたしが。1つのわたしが。暴走する。助けて……!」
刃沼「ふーん……、いかにも多重人格……っぽい話だなぁ。いつもと喋り方も違う気がする」
ヘル「どうなんでしょう。分かりません。何も分からないんです。ただ人を痛めつけるのが楽しい。ただ苦しむのを見るのが嬉しい」
ヘルの目が、少し淀んだ。
刃沼「医者に云った方がいいと思うな。私には医療の知識もなければ、精神科医でもない。ヘレネーやデガラシにも云いなよ。そっちの方がいいアドバイスをしてくれるだろうよ」
ヘル「姉は駄目です」
「なんで? その性質を知られたくない、と」
「それもあります。でも……今、姉を見ると…………」
「んー……?」
「……殺してしまいそうで」
「おーお、次は姉殺しかぁ……。何とかなんないもんかな、その多分に迷惑な性質は」
「…………」
刃沼は銃を取り出し、ヘルに銃口を向ける。
「どうする? もういやだってんなら、自害という選択肢もあるが――」
銃をしまう。
「正直、私はそういう役、嫌だなぁ」
「――刃沼さん。貴方も幼少時代、たくさん人を殺してきましたよね」
「ん…………」
「殺しが止められない。私と同じですよね?」
「ヘルの云う意味とは、違うよ……。ヘルは……もうこりゃ快楽殺人者に成り下がっている。そちらは一種の依存症かもしれない。――だが、私は生き延びるためには、殺すこともいとわなかった。その違いだ。――好き好んで、やる訳がないよ。痛い目を見るし。何より心身共に疲れるし」
「私だって……、私だって」
「少なくとも私は、今のヘルの、殺しが楽しいとかいう感覚を理解することは、到底できないよ。生き死にってのは辛さしかないもんだ」
「んんんん……、ううう……。じゃあ、もう、いいよ。……死んで」
部屋の窓と、ドアが同時に開いた。そして化け物がなだれ込んできた。
刃沼「おおう……! まさにモンスターハウスって感じだな。モンスタールームかな、パニックルーム?」
ヘル「そんな余裕でいられなくなるよ、刃沼」
ヘルは化け物に抱えられ、遠くへ去る。
刃沼「…………、運を天に」
化け物が跳びかかる。刃沼は転ぶように避ける。隙を見て、照明を撃ち抜く。闇の中、刃沼は化け物を踏み台に、開いたままの天井の穴へ逃げ込んだ。
◆888号室
そして隣の部屋に。今回は照明がついていた。
ヘレネー「なんだよ、この事態……!! おお、刃沼、またか! 天井から忍者ゴッコ」
刃沼(……やっぱりデガラシはここにはいなかったか。人質に取られたか、最悪殺された可能性あり……)
刃沼「ヘレネー、逃げるよ」
ヘレネーの手を掴《つか》み、駆けだす。
◆カフェ
ロビーまで駆け降りて来ると、カフェの一席にデガラシが呑気《のんき》に構えていた。
デガラシ「慌ただしいですね、刃沼。話し合い、終わりましたか」
刃沼「デガラシ! (良かった。杞憂だった。無事だった)」
化け物が追いかけている気配はなかったので、カフェで三人と話した。刃沼はこれまでのことを伝えた。
ヘレネー「ヘル……。ヘルが? 嘘だろ……。だってよ、ヘルは気が小せぇんだよ昔から。そんなこと出来る奴じゃあ……」
デガラシ「確かに最近様子がおかしかったですもんね」
刃沼「デガラシ、前にヘルと捕まったとき――タコヤマに人質に捕まったとき。ヘルが何をしたか、思い出した?」
デガラシ「それが……すいません。思い出すどころか、記憶がどんどん薄れていく始末でして……」
ヘレネー「ヘル……、ヘル……ヘルよぉ……」
刃沼「そうだ。大事なこと云い忘れるところだった。ヘレネー、ヘルがなんであんたを避けていたか、多分分かった」
ヘレネー「えぇ……」
「屈折した感情だけどね、ヘレネーを殺したくなかったからだと思う。もうヘルは壊れかけて……いや、もう壊れちゃったな。で、ヘレネーを次の殺人対象としている感情と、昔ながらのヘルの感情とがごっちゃになってる。そう、私には見えた。危ないよ、今ヘルに近づくのは」
ヘレネー「でもよぅ……。こうなっちまったのは、なんか……オレが、なんか……したのか? したんだろうな。でなきゃ、そんなバカみたいに狂ったりは……。なにが原因だったんだ。オレには分からねえよ。ダメだなァ……オレは。みんな死なせちまって……誰とも会わす顔ねえよぅ……」
デガラシ「ヘレネーさん」
デガラシはヘレネーの背中をさする。
デガラシ「だったらまだ自分を責めないでください。刃沼もなんか云ってあげてください。わたしたちはどうあろうと見捨てませんから……」
刃沼「ああ、えっと……。最近多いらしいよ? 狂人化現象って、聞いたことあると思うけど、深刻化してるみたい。ヘルのようなのが、次から次へと現れてるよ。気にしないで」
ヘレネー「そんな慰められ方されてもなぁ……。けどまぁ、ありがとな……」
◆909号室
昇り始めた朝日が、薄らと部屋を明るくする頃。刃沼もデガラシも睡眠中だ。
ヘレネー「あ、起こしちまったか?」
ヘレネーは紙切れと鍵を、刃沼のポケットに突っ込んだ。
ヘレネー「すまねぇ。じゃあな」
刃沼「あい、あぃ……」
寝ぼけ眼で応答して、また寝た。刃沼の寝顔を見下ろしながら、「本当に、すまねぇ。達者で」。部屋の外へ、ヘレネーは出て行った。
◆洞窟
「話があるんだ……。二人っきりで話したい。……来て」
ヘルに連れられ、ヘレネーは海沿いの崖にある洞穴《ほらあな》から、その奥に広がる洞窟へと進んでいった。分岐をいくつか通りすぎた先で、ヘルは立ち止まった。ヘルの眺める先をたどると、はりつけにされたレッドパスの姿がそこにあった。
「なんてこった……」
レッドパスは意識がないらしく、目をつむったまま、ピクリとも動かない。すでに亡骸かもしれない。手足は槍で貫かれ、それで壁に固定されていた。そして胴体中央部に一回り大きな槍が貫いていた。
(最近見ねえが、まさかこんなことになっていたとは……)
「どう?」
ヘルは聞く。昆虫採集して作った標本を見せびらかすような「どう?」だった。
「……どうしてなんだ」
「どうして? これで」
ヘルは注射器を取り出した。
「これで動けなくしたの。普通の量じゃ効かなくてね。何本を打ったら、気絶しちゃった」
ヘルはゆらゆらとレッドパスのほうに向かう。注射器から毒々しい色の液体を垂らしながら。
「……もう一本、打つね」
「やめろ!」
ヘルは立ちどまり、ヘレネーをじっと見つめて、「じゃあ、いいよ」と云った。そして手の平を広げた。注射器が落ちた。
カランカランカランカランカンカンカン......
石のように固い地面の上を、注射器は転がる。
「殺さないでね。身体の自由を奪うだけでいいから」と、ヘルは遠くに話す感じで、云った。
「お前次第だよ。ヘルがまともになりゃ、殺しはしねぇ」
「お姉ちゃんに云ったんじゃないよ」 ……
そこでヘレネーは背後の気配を感じ、振り返る。が、すぐ間近にいた化け物に捕まった。化け物に壁へ押さえつけられる。身動きができない。
「ちぃ……」
ヘレネーは歯を食いしばる。ヘルが近づく。何も云わず無表情で、いつしか持っていた包丁で、ヘレネーの足を刺した。
「うくッッ……」
ヘレネーは悲鳴を押し殺す。
「あは、はははははは…ハハハハ」
(まただ。またあの乾いた笑いだ)
次にヘルはナタを持っていた。包丁はヘレネーの足に刺さったままだ。横にはもう一体の化け物がいて、そいつがカナヅチやらロープやらナイフやらを持って待機している。ヘルはナタを大振りで動かすも、軽いヘルの身体はナタに持っていかれ、ヘレネーを押さえつけている化け物にタックルする形になった。ヘレネーはその一瞬のチャンスを逃さない。化け物を払いのけ、ヘルに向かって行く。が、ヘルはナタを投げてきた。そのナタの角が、ヘレネーの腹に当たり、めり込む。ヘレネーは悲鳴を上げた。うずくまる。ヘルは嬉しそうに笑いながら、カナヅチを取る。
「初めて聞いた。お姉ちゃんの悲鳴」
カナヅチを振り上る。「肩叩きしてあげるね」、斜めに振り下ろした。ヘレネーの肩を叩く。ヘレネーの絶叫。そして、怒りに滲む目には涙もぽろぽろと流れていた。
「泣いてるの? ……ふふ、はは…っ」
ヘレネーは浅い息を繰り返し吐いた。這って移動し、ヘルと距離をとり、体勢をととのえる。そして拳銃を取り出し、ヘルに銃口を向けた。
「お前に何があった? いつからそうなった? ……何を憎んでいる? オレが何かしたか?」
ヘルはニヤリと笑う。
「憎んでないよ。大好きだよ」
ヘレネーは無気味さを感じるばかりだった。
「好きだから、殺すんだよ」
寒気がした。頭痛がした。
「好きだから殺すって何だ!? 殺して食うのか!? 肉が好きだから動物を殺すようなもんか? 何か混同してるんじゃないか!?」
「食うなんて、お姉ちゃんは恐ろしいこと、云う……」
「お前が恐ろしいよ!」
「うぅ……。……お姉ちゃんには……分からないよ! わたしの気持ちなんて!」
ヘルは落ち込んだような素振りだけをした。
「分かるか! バカタレ! ヘルよ、じゃあ、オレの気持ちは見通せるか!? 誰だって自分以外は分からねえんだ! いや、ことによるとよ、自分すら分かっちゃいない!」
ヘレネーの指が、引き金にかかる。小刻みに震える。
「わたしを殺すの?」
「ああ。それしかねえ」
「あなたの妹だよ」
「ああ、そうかい」
「……じゃあ、撃てば」
「…………」
銃を構えてから、ここまでに十分な時間があった。だが、一向に撃たない。
「お姉ちゃんには、わたしを殺せないよ。だって、妹だもの。家族だもんね〜?」
「バカヤロウ。家族だろうと、妹だろうと、それでも…………」
銃口が揺らぐ。狙いがさまよう。ヘルの頭――逸れて、後ろの壁――逸れて、隣の化け物――。発砲した。全然違う方向へ。ヘルはカナヅチを投げ飛ばし、ヘレネーに直撃した。ヘレネーは銃を力なく落とし、うずくまる。
「ほら、無理だったぁ」
もはや聞いていない。肉体的ダメージのためか、心理的ダメージのためか、ヘレネーの意識は遠ざかる。遠くで声が聞こえる。「ヘレネーさん……! ヘレネー…さん! ヘレ……!」
◆洞窟
デガラシは洞窟を駆けていた。――先程、胸騒ぎの感覚に従い、ホテルから外へと出た。散策しているうち、違和の感じる臭いと音を感じ取った。それをたどって現在、洞窟を駆けている。さらに大きく音が反響する、血の匂いがする。それを手掛かりに分岐点でも迷わず前に進んだ。そして、ヘレネーの姿を見つけたとき、カナヅチがヘレネーに打ち込まれた。
「ヘレネーさん……!!」
デガラシは駆け寄る。
「ヘレネーさん!! ヘレネーさん!! ヘレネーさん……!」
ヘレネーの目がうつらうつら動くだけで……それだけだった。
「ヘルぅッ!!」
母親が子供を叱りつけるように怒鳴った。ヘルはビクリと肩を震わせ、化け物の背後に回った。
「なんでこんなことをするんですかっ! ヘルのお姉ちゃんじゃないですか!」
「ごめん。デガラシ姉。怒らないで。許して、ね?」
「許しません! 本当にそう思うなら、そんなひどいこと……」
「してないよ? ひどいことなんて。全然、してないよ」
「ヘル……。これをどう見れば、ひどいことじゃないなんて云えるんです?」
血を流し、倒れるヘレネーと、はりつけにされたレッドパスを、デガラシは見た。
「遊んでくれただけだよ。別に、ひどくも悪くもないでしょ」
「遊び……ッ!?」
デガラシは哀しさと驚愕に顔をしかめる。
「みんな遊んでくれただけ。勝手に死んじゃっただけ。とも子ちゃんも、マサオ君も、アキちゃんも、サユリちゃんも、みんな仲良し」
「えっ……、とも子……、マサオ…… あの二人は化け物に」
「わたしが遊んだあとに、化け物に食われたみたい。偶然だね〜」
「……分かりました」
デガラシはヘレネーの血が付いたカナヅチを拾い上げる。そしてヘルに向かって、一歩一歩進んで行った。
「恐いよ。デガラシ姉」
ヘルは怯える。身体をガタガタ震わす。
「通用しませんよ。わたしには」
デガラシは冷たい目でヘルを見据える。
「そうやって今まで、弱者を演じ、相手を油断させて……」
ヘルに手が届くところまでデガラシは近づいた。そしてカナヅチを振り上げる。
(ごめんなさい。でも、やらなきゃ、いけないんです)
唐突にヘルが笑い出す。やはり、あの乾いた、奇妙な笑いだ。
「へへ、キャハハハ、フフフ、ハハッハハハははははは……!!」
デガラシは目をつむり、ヘルの頭部目がけて、カナヅチを振り下した。――はずだった。だが、無かった。カナヅチも、それを握る手首も。
「う……ううぅううううぅぅぅううう……!」
それから呻《うめ》き、そして悲鳴を上げた。左手首の断面から地面へ細い血流が続いていた。ヘルはまだ笑っている。そばにいる化け物が巨大なハサミのような器具を持っていた。その刃はすでに赤く染まっていた。デガラシは身体をよじり、もがき、嘔吐し、後ろに下がる。その背後から、足をひきずる誰かが通り過ぎた。けれども、それを良く見る前に、デガラシは力尽き、眠るように失神した。
*
「あ、起きたんだ」
足をひきずりながら前へと出るヘレネーに、ヘルは云った。
「でももう、虫の息? だいぶ辛そうだね?」
ヘレネーは何も云わない。何も発しない。腹を押さえ前かがみにうなだれ、ただ、じりじりと、ヘルとの間合いを詰める。
ヘル(何を考えているか分からないな。用心しようかな)
ヘルは間合いを詰められないよう、ヘレネーに合わせて、距離をとる。ヘレネーは遅い歩みで、ヘルに近づく。ヘルは遠ざかる。
ヘル「いつまでやる気? お姉ちゃんが事切れるまで? 無駄なあがきだねえ」
ヘルは冷や汗をかいていた。なぜかは分からない。ヘレネーは無言のまま、歩き続けた。
ヘル「やめてよ。死を早めるだけだよ?――うっ!? え!?」
ヘルの頭が、誰かに掴《つか》まれた。頭を後ろにねじり見てみると、レッドパスの手が頭上にまで伸びていた。ヘレネーは「やってくれ」と云ったあと、倒れた。ヘルの顔は恐怖で歪む。そして……。――ヘルの頭部は、潰された。仕事を終えたレッドパスの手は、だらりと垂れた。もう誰も動かない。ピチャ……ピチャ……という、液体の滴《したた》る音が長らく響いた。
◆カフェ
コーヒーとお茶をすすりながら、害骨と刃沼が話をしている。
「へーっ! 化け物を操っている!?」
刃沼はヘルのことを話していた。
「化け物を仲間にしている、って感じだったね」
「いやぁ、ほとんどの化け物には知性はなくてですね……うーむ」
「どうなの? どういう仕組み?」
「う〜〜む……不思議ですね。分かりません」
「あ、そう。頼りない!」
「すいませんねぇー」
「じゃあいい。研究施設のことは教えてくれないの? 研究員のことでも」
「と……云われましても。さっぱりで。研究施設は、この孤島の地下に、散らばって存在します。つながってないのです」
「つながってない、って?」
「1つの大きな地下施設がある、と想像していらっしゃるなら、違います。地下空間が、いくつも別々に存在していると、云いましょうか。別個に存在しているのです。互いに直接の関わりはありません。ゆえに私は、他の研究員のことを何一つ分かりません」
「ふーん」
「コンピュータ上のネットワークから、必要最低限の情報が行き来されるだけで。私のようなものは、あとはずーっと研究に没頭しているのです。そもそも、このように地上に出るのも稀で。何しろ地上の世界があるということすら忘れている始末でして。研究さえできれば、後は望まないのです」
「研究員って、みんなそんな感じの人なの?」
「いや……どうでしょう。私以外にも研究員の方、ここで見かけますか?」
「いいや」
「それでは、みんな似たり寄ったりなのかもしれません。みなさん外の世界には興味がなく、研究熱心なんですよ」
「熱心というか……依存症じゃないの」
「まぁ、その傾向はあります」
◆自室〜倉庫
刃沼のポケットにはメモと鍵が入っていた。
(何だろう、これ? ……そういや夢の中でヘレネーが、何かしてたな。……夢じゃなかったんだ)
メモは簡易的な地図だった。島の一カ所に印があった。そこへ行ってみた。空家がある。中へ入る。また扉がある。開かない。大きな南京錠がしてある。(そこで、この鍵か) 頂いた鍵を試す。開いた。(わぁ……)
そこは大量の武器弾薬倉庫だった。拳銃からライフルに機関銃。手榴弾もごろごろ。果てはバズーカか、ロケットランチャーか、そういうものもいくつかある。
(あぁ、こんなのまで)
携行式ミサイルも用意してあった。
(……紛争でも起こす気だったのかな、ヘレネーは)
弾薬をいくつか拝借して、倉庫の扉を閉め、南京錠も戻しておいた。
◆海岸
ホテルに戻る帰り道、刃沼はぶらりと海岸を歩いていた。今日はいい天気で、水平線の眺めも良かった。何か、良い日になりそうな、そういう天気の雰囲気。洞窟から、ケガ人らしき人が3人出てくる。赤いカウボーイハット、青いジャージ姿、白い和服。刃沼は駆け寄った。そして青いジャージの腕をつかみ、白い和服と赤いカウボーイハットを、何度か見て、そしてしばらく沈黙した。
◆909号室
「デガラシ……」
刃沼は、デガラシの左手があった所を見る。
「――仕方ないですよ」
◆民宿ずんだら
引き戸を開き、呼びかける。
レッドパス「久しぶりだ。おばちゃん、今帰ったぞ」
ヘレネー「おばちゃんはいないよ」
「いない? どういうことだ」
「あんたがいなくなるだいぶ前から、いなくなったんだ。そういえば教師たちも見かけねえ。他の島の人たちも見かけねえかな?」
「そうか――。傷の方は問題ないか?」
「ああ。オレからしたら、あんたに大丈夫か? って聞きたいくらいだ」
レッドパスはあれから、手足と腹に刺さった槍を自分で引き抜いた。そして傷口を潰し、捻じ曲げて出血を止めた。初めて見る止血法?にデガラシとヘレネーは唖然とした。
そのあとレッドパスは、ヘレネーとデガラシに応急処置をした。ヘレネーの和服の布が、役に立ったらしい。傷はその布で押さえつけられている。さすがにレッドパスが自身に行ったような荒治療はしなかった。ヘルの用意したナタは、刃がもう鈍くなっており、切るよりも叩かれたダメージが大きかった。包丁にしても、ヘルの非力さのためか、深くは刺さっていない。あるいは……
ヘレネー(姉を思う気持ちがちょこっとは残っていたのかもな)
そう信じたいヘレネーもいる。
レッドパス「刃沼が、あれほどショックを受けるとは思わなかった」
「普通、そうなるだろ? 親しい人があんなになりゃあな」
「話に聞いた印象では、もっと冷たい人間だと思ったが……」
「そういう面もあるけどよ。普通の人だよ、刃沼は」
「普通、か。一般人という意味ならば、今はそうだな」
「過去は過去、今は今さ。後悔ってのは過去に置き去りにできるもんだ」
◆909号室 デガラシと刃沼。
「そう哀しい顔しないでください。私は平気ですから」
「だって……」
「レッドパスさんがおっしゃっていました。殺すならば、死を覚悟しなさい、と」
「うん……」
「わたしは命を失うところを、この左手だけで済みました。本当にそう思っています」
デガラシの微笑みが、なお、刃沼を哀しくさせた。
「左手がなくなった分、私が支えるから。遠慮なく、云って。手伝えることは」
「ありがとうございます。でも、ダメですよ。頼ってばかりでは。わたしは色々聞いたことがあります。もっと過酷な運命……、例えば、両腕をなくした人だって、一人で生きている人もいます。わたしにもできます……できるはずです」
「……、デガラシは以前に、私が強いって云ったことがあった。でも、本当の強さは、今のデガラシのようなことを云う」
デガラシはしばし考え、それからまた笑んだ。
刃沼(私は五体満足な状態でも、度々自殺願望が頭に過《よぎ》るのにな……。いつも元気な人って、どうなっているんだろう、ね)